サンドウィッチと信仰

*ラジオでいただいたお題「今の時期の美味しいもの」。
 ネップリ配信済(2019/10/24-31)。

 それを食べようと思い立ったらまず空を見ることだ。できれば晴れている日が良いが薄曇りも乙である。時間は絶対に日没前でなければならない。夏であれば蒼穹の青が大気に散って白む頃、秋であればまだ炎陽を思わせる獰猛な西日が差す頃を言う。
 いまは9月の終わりであるから、こういう時分を思うがいい。君はいまビル街の隙間から照りつける真っ赤な夕日を片手で遮りながら雑踏を行く。通勤帰りの会社員や人生を持て余す若者の波に揺られて大きな交差点を渡る。人波で満ちた繁華街に辟易しつつ歩を緩めずに進むその視線の先に、白くて小さい看板がひっそり立っているのを君はみとめる。看板の脇から狭い路地に身体を滑り込ませ、背後の喧噪をすっかり置き去りにしたところで喫茶店のドアがひとつ、唐突に眼前に現れる。
 中に入ると店内はさほど広いわけでもない。テーブルが六つか七つあるようだが奥まで見渡すには光量が心許ない。天井からテーブルの上にひとつずつ吊られた裸電球以外に灯りはなく、絵画や観葉植物が飾られているわけでもない。窓がある壁面はひとつだけ。その下に据えられたカウンターを選んで席に着く。注文を取りに来た人影にメニューも開かず君は唱えた。

「ベーコンポテトサンドウィッチ」

 それが信仰しているサンドウィッチの名前だ。
 ブレンドもひとつ、と付け加えて椅子に腰掛けた居住まいを正しているうちに、窓から落ちる陽光は刻々と暮れていく。店の奥から何かを炒める音と湯を沸かす音が聞こえてくるが、君はそちらに眼を向ける暇もない。白んだ夕焼けが音もなく躊躇いもなく、瞬きの間にすら粛々と西に落ちていくからだ。窓から見える雲ひとつない蒼穹はいよいよ澄んで一枚のセロファンのよう。光って透き通って色もないのに向こう側が少しも見えないのが不思議だ。ただ空が煌々と在る。大気に溶けて窓を通って肌を、双眸を、肺をあかるくする。
 お待たせいたしましたと声がかかるのはそんな時だ。差し出される腕と横切る香気に意識は窓から引き離される。電球と夕暮れの成す柔い暁色の暗がりに、ことりと置かれた一枚の皿は黒い。白いグラシン紙に包まれたものが二つ、静かに横たわっている。そのうちのひとつを手に取って折り込まれた薄紙の端を解き、温かいそれに指の跡がつかないよう細心の注意を払いながら包みを剥がす。
 薯だなあ、と君はいつも思う。
 きつね色の焼き目にふさわしく香ばしい香りを誇らしげに立てる食パンよりいつも眼をひくのは、その間に挟まれた馬鈴薯の白だ。サンドウィッチに必須であるところの食パンより真白くぶ厚い層を成している。昔読んだ何かの本で「サンドウィッチのバターはパンよりも厚く塗るべし」との記述を見たことがあるが、この厚さをバターで実践しようものなら虎が何匹要ることか。薯の下にはいかにも塩っぱそうなベーコンの赤、次いでクレソンの緑、チーズのオレンジが層を成し、最後に食パンへと至るグラデーションを卵色のマヨネーズがさりげなく繋いでいる。
 これだけ多様な層が重なっていると容易に崩れそうなものだが、瓦解する心配はない。層の殆どを成している中核の馬鈴薯の凹凸に、食パンが最も外側から他の具も巻き込んで生真面目に寄り添っている。ベーコンもクレソンもチーズもマヨネーズもみんなみんな薯に甘い。そうして寵愛を一身に受けているのを知ってか知らずか、無垢な薯は夕暮れの残滓を受けて甘やかに輝いている。
 いただきます、と口中で告げて君は、ベーコンポテトサンドウィッチに一口齧り付く。パンの上から歯を立てるのは少し至難の業かも知れないが、これだけ旨そうな調和を立てている一品をちまちま食べるのは勿体ない、という使命感が口を大きく開けさせる。
 そして実際、それが正解なのだ。
 パンの耳の方角から齧り付いた時にきっと気付くが、このサンドウィッチは耳のあたりには具が挟まっていない。必要がないからだ。パンの耳そのものが、口中から鼻を抜けて頭の後ろを痺れさす滋味をたずさえているので何も要らない。まさか歯で味覚が分かるようになったのではないかと疑うほど、噛むことと味わうことが直結している事実に打たれるし、このサンドウィッチが噛めば噛むほど旨いだろうことをここで予感してしまう。
 ベーコンの層は薯に比べれば微々たるものなのに、決して埋もれることなく己の存在を遺憾なく発揮してくる。すなわち肉特有の脂の美味さ、こんがりという名の代え難い喜びである。咀嚼しながら思わず頷いてしまうほど雄弁に味覚を震わせる。そもそもその名を冠しているだけのことはある。塩気があるのも素晴らしい。おかげでマヨネーズの見せ場がこれ以上なく効いてくる。
 マヨネーズ、マヨネーズである。何気に黒胡椒が混じっているのもポイントだ。決して強くはないパンと薯の旨味を引き立て、ベーコンの強い塩をまろやかにする。あまりにも全体に合い過ぎているので、生まれたときからひとつだったのではないかと錯覚してしまう。いやこれは各々が各々として生まれ切ったあとに出会ったからこその強みなのかもしれない。これほど別の生きものなのに寄り添っていないと不自然なのは素直にすごいと思ってしまう。チーズも同様にぴったりと寄り添い、己が舌触りで以て各々の美徳を礼賛する。
 しかしここまで徹底的に、緑の不在が致命傷になる配分もない。幸いにもここに投ぜられたクレソンは肉にも乳にも負けない香りを有している。ややもすると唐突に押し寄せすぎて行き場を失うもったりとした食感と濃厚な香気を和らげ、口中に広がる恩恵のどれが誰の持ち物であるかを明瞭に示してくる。無論自身の歯触りの良さ、青物の清涼さを差し出すことも怠らない。
 そしてこれら全ての滋味旨味芳香がことごとく絡み合った馬鈴薯の、得も言われぬ多幸感といったら! ベーコンとパンとクレソンとチーズとマヨネーズの良いところばかりを吸い上げた柔さと甘さで、口いっぱいに惜しみなく広がっていくものだから唾液が溢れて止まらなくなる。ほろほろと崩れる食感が幸福の崩れる音ではないかと焦燥すら駆り立てるので続けざまに齧り付いてしまう。噛めば噛むほど立ち上る満たされた感覚が、これを一口で食べた自分の英断を讃えずにいられない。それ以外に正解はない。頭の後ろがじんと痺れて無我夢中になりつつ食べ進める。
 気付くとあっという間に食べ終えた手のなかには、ぐしゃぐしゃで空っぽの包み紙だけが残される。多幸感はまだ身の内で温かく響いているが、なくなってしまった、という寂しさは少なからず指先を冷たくさせる。浅ましくも寂しさすら覚えて、黒い皿の上に眼を落とす。
 グラシン紙の包みは二つ置かれていたのだったと、思い出すのはその時だ。
 視界が少し明るくなった心地すらして、皿に残っている二つ目のサンドウィッチに手を伸ばす。薄紙を剥いだ断面から幸福が匂い立つのを確かめて、今度は齧り付く前に層や焼き目の色彩をしげしげと眺めるなどする。この幸福の塊のような料理がどんな均衡で成り立っているのか、視覚では理解できても頭ではまだまだ難しいものだと感心する。
 そうして二つ目はあっという間に食べ終わることのないように、ゆっくりと食む。奥歯で噛み締めたり前歯でほろほろと崩したり舌の上でしっかり転がしたりしながら、一緒に注文していたブレンドコーヒーをようやく啜る。キリリとしまった苦味が口中に凝った塩と脂を心地よく胃の腑に連れていく。このためにブレンドした豆ではないかと穿った眼で見てしまうのは無理からぬことだ。
 そして二つ目の半分も過ぎたところで、ふと窓の外を見る。
 光るばかりだったはずの天蓋には夜が敷かれ始めていた。仄明るい暁光は空の端で息を潜めるばかり、そのほかの一切合切はどっぷりと暗い。テーブルに落ちるのは頭上の小さな電球の灯りばかりで、なのに掌中のサンドウィッチはいよいよ煌々としてくる。窓の向こうの闇を透かし見るグラシン紙は淡く輝き、白いパンと馬鈴薯の切り口は夜を背景にますます白く在る。陽光の遮りもなく降り注ぐ電気の粒子が黒い皿と白いカップの輪郭を柔く闇に溶かす。そうして茫洋とする卓上の至福を零さず眼前に留め置けるのは、硝子の向こうに明瞭な夜がぱっきりと横たわっているせいだ。光の在処を明け渡してもなお、空はただ綺麗なままで在る。
 そうして差し出された安寧を残り半分のサンドウィッチとともに噛み締めて、役目を終えたグラシン紙を下ろす。一口だけ残ったブレンドを飲み干し、今度こそ空になってしまった皿をけれど充ち満ちた気持ちで見下ろしてしまう。

「ごちそうさまでした」

 小さく唱えた両手が祈りの形をしているのも無理からぬことだろう。

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